Alumimum

Joseph Beuys展に行ってきた

arumumuの投稿 (28/01/2010)

およそ26年前の話である。

2009年の晩秋ごろから水戸芸術館で開催されていた「Joseph Beuys展」には、ボイス氏が1984年に来日し、8日の間各地で紡いだ言葉が映像となっていくつも上映されていた。

What I’m trying to achieve is not to produce artworks for appreciation it is to arose people’s interest in asking questions through art — “What makes this work art, and how is it engaged in society?”

私が試みていることは、鑑賞される芸術作品ではなく、作品を通してなぜそれが成立しているのか — それがいかに社会とかかわりを持っているか — そういう「なぜ」という問いを喚起することなのです。

Joseph Beuys (1921-1986)

ボイス氏の言葉からは一貫してこの姿勢が感じられた。これほどまでに社会と関わることへの重要性について言葉で表現したアーティストがいたのかということに衝撃を受けた。会場に入ってすぐそんな映像を見てしまったので、かなり多く展示されていたボイス氏の作品よりも、日本にいたわずか8日間に何を話したのかのほうが気になって仕方がなかった。言葉というのは実に口当たりがよいものだ。

If an artist withdraws from confronting the whole society and critical analysis of it, he/she has to remain in children’s domain.

社会全体と対決しなければ、それを批判的に考えていかなければ、芸術家は単なる子供の領域に閉じこもってしまいます。

Joseph Beuys (1921-1986)

これは決して芸術家に限ったことではない。
誰もが社会現象に深く関わっており、その社会の姿を変える、創りだすことができるということ、その潜在性を指してボイス氏は「すべての人間はアーティストである」と表現する。この表現を指して理想論と失笑することは容易いが、それは越えられたわけでも、消滅してしまったわけでもないと「ナノ・ソート」の著者である杉田氏は言う。
私自身、職業として所属している、いわゆるカテゴリとしてのITの世界は子供の領域に閉じこもってしまっているのではないか、そう感じることが最近しばしばある。

「拡張された芸術概念」は、創造性というものが、アーティストに特権的ににえられたものではなく、 社会のさまざまな局面に参加するすべての人々が、個々の活動を通して発揮することができるものだということを明確に主張した。一部の特権的意識にまみれた人々の創造を芸術と呼ぶのであれば、創造性を発揮しうるすべての人々の手によって生み出されるものは、芸術を拡張した何ものかに違いない。また、そのようなかたちで拡張された芸術は、個々の作品に結果するというよりは、社会という誰もがアクセスできる巨大な素材を、総がかりで彫刻していくことになる。

杉田敦, ナノ・ソート

たとえ人びとが社会に介在していたとしても、それぞれがエゴイストで好き勝手にやっていては「総がかりで彫刻」ということにはならない。ボイス氏は資本主義がそれをもたらしたが、その状態を多様性のある社会とは言わないと言っていたけれども、資本主義社会が原因かどうかはともかく、確かに多様性という言葉はしばしばご都合主義的解釈で用いられている。

ボイス氏が残していったメッセージは今なお、彼が日本を訪れた当時よりも重くわたしたちの肩にのしかかっている。彼が提示した問題を後回しにしてきたツケをいまの日本の社会(を構成する人々)は払うことができるだろうか。そして当時の映像で、ボイス氏と議論を交わした芸大の人たち、或いは芸術関係、その他の人たちはボイス氏の言葉を受け止め、およそ26年間を過ごしてきたのだろうか。

もちろんこれは未来の自分に対しての自戒ともなりうるのだけれども…。

芸術で考える

arumumuの投稿 (21/01/2010)

これ、面白い。俺みたいな普段行かないクラスタの来場のきっかけになるか!?:東京国立博物館でiPhoneを使った位置情報連動ガイドの実証実験:MarkeZine(マーケジン)http://bit.ly/64JoCy

@husaosanさんの発言

上の発言はたまたま私のTwitterのTL (Time Line)にあった発言を引っ張ってきただけでそれ以上の意味はないけれども、私が興味深いと思ったのは、iPhoneを用いた位置情報連動ガイドが来場客にどのような影響を与えるかということももちろんだけれども、それ以上に普段「改まって」博物館や美術館に行くことが少ない人は、なぜそういう行動をとるのかということ。

実は同じような試みが「文化庁メディア芸術祭」でも行われている。
メディア芸術祭公式iPhoneアプリ『JMAF navi』、本日よりApp Storeにて無料ダウンロードがスタート。

例えばこのような取り組みが本格的に導入されたとして、彼のような普段展示空間に足を運ぶことが少ない人は、その後そのような場所に何度も足を運ぶようになるだろうか。
それは疑わしい。

つまりこれらの取り組みは、技術的にはおそらく展示空間を訪れた人に対して、より「鑑賞しやすい状況」にする可能性はあっても、来場者が展示物等に触れる機会そのものを重要視することに直接影響を与えることはないように思える。

ではなぜ、わたしたちの多くはそういったものを鑑賞しようと思わないのか。
杉田敦氏は、現代の芸術に関して以下のような背景があると考えている。

現代美術を前にしたときの難解で近寄りがたいというありがちな反応の問題も見えてくることになる。それらの反応の多くは、享受者という立場に何の疑いも抱いていない人々のものでもある。享受する立場にいるからこそ、理解できないようなものを拒絶するのだ。彼らはまた、作品に固有の意味があることも疑っていない。だからこそ、自分が理解できないものが存在するということを無批判に受け入れてしまうのだ。彼らの抱く難解さや近寄り難さは、彼らが享受者であり続ける限りぬぐい去ることはできない。また彼らがそうした意識を抱いている限り、保守的なアートを巡る制度はより強固なものになることになる。一見すると、アートの関係者の多くは、難解さや近寄り難さというようなものを払拭すべく努力しているように見えなくもない。けれども、難解さや近寄り難さに対処している限り、美術を巡る制度の中で生産者と享受者は明確に区別され続けることになる。享受者であり続けるからこそ難解なのであり近寄り難いのだ。凝視めるべき問題はそこにある。 (pp.215-216)

杉田敦, ナノ・ソート

幸せなことに東京にいると、東京では様々なアーティストの展覧会が年間を通して隙間なく開催されており、それらを鑑賞する機会には事欠かない、世界でも比較的恵まれた環境であることがよくわかる。
それでもわたしたちが享受者である限り、生産者と享受者の間に“interactivity (インタラクティビティ)”は発生しないし、作品を通した受け手側からの再構成、或いは再生産が起こることもない。

たとえそれが、即座に効果を見込めないようなものだとしても、実行できることがあるのであれば、まずそれを行うべきだ。 [...] アートに関連して言えば、直接、作品制作に携わる人間だけでなく、企画などを通して間接的に関わる学芸員やキュレータや、種々の表現を受け止める観衆や聴衆に対しても、同じように自身を振り返ることを促している。結局そうした問いは、現代美術を難解だとして敬遠することや、難解さを回避するためと称して弄ばれる、表層的なセールス・トークの濫用の背後に、ある種の怠惰があることを明るみに出すことになる。同時代の表現を目の前にしたとき、人々には何かするべきことがあるはずだ。それを理解したり、把握することがすべてではない。意味のない目的を抱くからこそ、それらは難解なものに成り果てる。もちろん、そもそも理解や把握などということが可能かどうかを問うことも意味のないことではない。壮大な目標を勝手に設定して、挫折してみせることは安易な現実逃避でもある。少なくともわたしたちは、何かを想い、考えることぐらいはできるはずだ。もちろん、結果は問題ではない。理解や把握が想定しているようなゴールは必要ない。誤解を恐れずに言えば、現代美術を考えるのではない。それが何もので、どこに向かおうとしているかなどということはどうでもよいことなのだ。必要なのは、考えるということ。現代美術を考えるのではなく、現代美術で考えるのだ。 (p.23)

杉田敦, ナノ・ソート

考えるということは安易に人の意見に同意したり、 脊髄反射をしたりすることでもなければ、大量のブックマークをつけることでも、やたらと引用をすることとも違う。
思考するということ自体が造形行為だととらえ、思考は言葉によって素材となり、造形化されるものだと考えたヨーゼフ・ボイスはこう言っている。

In my Expanded Concept of Art, words are included in art.
私の«拡張された芸術概念»では、言葉も芸術なのです。

Joseph Beuys (1921-1986)

私も一技術者であり、新しいテクノロジーには並々ならぬ関心がある。
しかしだからこそ、そのテクノロジーが社会にとって、そしてそれを用いる私たちにとってどのような影響があるのか、それが何を生み出すのか、ということに加えてなぜそれが導入されることになるのかということなど、もう少し踏み込んだ部分についても、もっと深く考え実践していくべきだと考えている。

杉田氏の「ナノ・ソート」は、Kentridge (ケントリッジ)展を見に行ったときに美術館のショップで見つけて初めてその存在を知った本だったけれども、氏の考えは非常に興味深かった。おすすめの1冊。

そしてこの「ナノ・ソート」を読んだのが1月の3連休だったわけだけれども、本書で言及されていた“Joseph Beuys (ヨーゼフ・ボイス)”に興味を持って調べたところ、水戸芸術館で「ボイスがいた8日間」という展覧会が会期終了間近だということを知ったのがその連休の最終日。ということで先日水戸まで足を運んだわけである。

その話はまた別のエントリーで。

余談だけれども、「メディア・アートとは何か?」のシンポジウムでは、この生産者と享受者の境界の交差が意図的に、そして非常にわかりやすい形でなされており、かつ前述のような社会に対する問題提起がはっきりされているために非常に興味深いシンポジウムだと思う。

William Kentridge展に行ってきた

arumumuの投稿 (15/01/2010)

昨年に人伝いで、ドローイングがおもしろいという話を聞いて、楽しみにしていたウイリアム・ケントリッジ(William Kentridge)氏の展覧会「歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた…」に年明け2日に行ってきた。
その感想をちょっとばかり。

氏の作るアニメーションで特徴的なのは何といっても、木炭画のドローイングで構成されたアニメーションだと思う。本人が「石器時代の映画製作」と言っているらしいこのコントラストの比較的強いモノクロ基調のアニメーションはしかし、現代のカラフルで丁寧な線で構成されたアニメーションとはまったく違う魅力的な何かをもっており、初めて氏のアニメーションを見た私は他のことなど何も考えず、氏のいくつかのアニメーションを食い入るように見ていた。

私たちが静止的な世界に住んでいるのか、それとも変化する世界に住んでいるのかを理解することが重要である。世界を事実の集積として理解することもできるし、全ての事実は何かに変化するまさにその瞬間にあると理解することもできる。[...]アニメーションは世界を事実として理解するプロセスではなく、世界を25コマ/秒として理解するプロセスなのだ。アニメーションのあらゆる段階において、その本質は、暫定的で何も固定しない、ということなのだ。

The central things is to know if you are living in a world of static fact, or if you are living in a world of transformation. You can either see the world as a collection of facts, or you can understand all facts as being moments of the processes in transformation. [...] Animation is a process of understanding the world not as facts, but as 25 frames a second. It is in its very nature provisional at all stages.

—William Kentridge, 2007 (quoted from the catalogue of this exhibition, pp. 10-11)

1枚のドローイングから始まって描いては少し消し、また描くというプロセスを踏むことで、通常のアニメーションではすぐに見えなくなってしまう時間の流れが見えること、これは消しても跡が残る木炭画だからこそであり、この視覚的な「跡」というのはさまざまなメタファーを含んでいると思う。

それは例えば氏が当初作品で取り上げた氏の出身地である南アフリカの(政治的な内容を含めた)歴史について、或いは氏個人、ひいては氏の作品を見る私たち自身への言及について、この痕跡という要素は非常に多くのことを考えるきっかけとなる。スクリプトのない氏のアニメーション、前のコマの跡がそのうしろに続くコマの描写に影響を与えるアニメーションはまるで歴史や個人の人生そのもののよう。

また、氏の作品の中にはX線写真を模した木炭画のアニメーション作品があり、

ソナー、X線写真、MRI、CATスキャンなどのイメージは、身体の外側のイメージとも、解剖学的な絵画や身体の内部を露にする解剖写真とも異なる。それは本質的に内的なイメージなのだ。どんなに深く解剖したとしても、そこにソナー画像の模倣的な言及を見つけることはないだろう。それらの画像は既にメタファーなのだ。ある程度理解できても、完全に把握することができない「内部」からのメッセージなのだ。それらは目に見える範囲から切り離された、遠い未知の場所からの報告としてやってくる。

These images—sonar, X-ray, MRI, CAT scan—are different from external images of the body, or even anatomical paintings or photographs of dissections revealing a body. They are, by their very nature, internal images. Dissect as deep as you like and you will never find the mimetic reference of the sonar. They are already a metaphor. They are messages from an inside we may apprehend but can never grasp. In their separation from the apparent, they come as reports from a distant and unknown place.

—William Kentridge, The Body Drawn and Quartered (quoted from the catalogue of this exhibition, p. 65)

氏自身がこのようにとらえているのも興味深い。実際に見に行くのが一番だと思うが、このアニメーションは非常に不気味というか、なかなか目にすることができない類のアニメーションだと思う。

今回の展覧会では映像作品が比較的多く、四方を映像で囲まれた場所もいくつかある。また木炭画や影絵等を手法としているため基本的に映像自体のコントラストが強い。
十分な時間(3時間くらい)と良好な体調でもって見に行くとよい思考材料となると思う。私はまだ咀嚼中。

ちなみに“William Kentridge: Certain Doubt Of”というドキュメンタリーDVDが売っていたので買ってみたが、内容から考えると4000円は少し高い気がする。確かに少ない時間ながら氏のアニメーションやドローイングを自宅で見られるけれども、もう少し氏の思想的な部分が見えるとよかったのかもしれない。 少なくとも私はそういうことを望んでいた。

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SOUND CONTINUUM 2009参加報告

arumumuの投稿 (31/12/2009)

去る11月21日、22日に東京芸術大学大学院映像研究科で行われた「SOUND CONTINUUM 2009」に参加した。
いつの間にか1ヶ月も経ってしまったけれども、個人的な印象として世の中にある情報が、随分視覚に偏重しているように思える昨今、聴覚に焦点を当てるこのようなシンポジウムに参加したことで、少し世界の見方が変わった。
残念ながら他の用事があったため21日のみの参加となってしまったけれども、門外漢が頭に刺激を受けるには十分なシンポジウムだった。

印象的だったのは“soundscape”という考え方があること。
私は知らなかったけれども、これはもともと“landscape”に由来する単語らしい。

“SOUNDSCAPE: An environment of sound (sonic environment) with emphasis on the way it is perceived and understood by the individual, or by a society. It thus depends on the relationship between the individual and any such environment. The term may refer to actual environments, or to abstract constructions such as musical compositions and tape montages, particularly when considered as an artificial environment.”

—B.Truax ad., A Handbook for Acoustic Ecology. (A.R.C., Vancouver, 1978)

直接的に“landscape”という言葉が視覚的な意味を持っているわけではないものの、語源としては画家が用いた言葉であり、やはり視覚的である一方で、“soundscape”とは文字通り聴覚的である。
では具体的にどんなものが、“soundscape”なのか。例えば下のリンクで聞くことができる音は“soundscape”だと思う。この音源付近で生活している人はこれを聞くだけで、どこの場所かわかるし、その情景も浮かぶはず。

とある場所の音

このような音は普段意識していないだけで、案外私たちは非常に多くの“soundscape”をちゃんと認識しているのではないだろうか。また、「東京はヘッドホンなしには生きていけない」ほどの騒音に満ちていることには意識的で、イヤホンやヘッドホンをしていてそれらを回避することはあっても、広告などの氾濫で大量の文字情報があっても目を閉じるなんてことをしている人はおそらくいない。そういう意味で聴覚は、視覚よりもダイレクトに人間のどこかに働きかける力があるのではないだろうか。

このところネットでもあまり活動が見られなかった“Presentation Zen”の著者ガー・レイノルズ氏が久々にApple Store 銀座でPresentation Zen Talk(?)をされるということで、参加してきた。

東京に住むようになってからたぶん一度も欠かさず参加しているけれども、いつも立ち見の人がいるくらい人気で、しかも私のように毎度訪れている人も少数なことから、関心の高さが伺える。ただし、集まるのはいつも出身国を問わず英語話者が圧倒的に多い。

内容は4月の時と大きくは変わらない。
それは軸がしっかりしていることの裏返しでもあるけれども、用いるスライドのデザインが少しずつ異なることから氏も試行錯誤を繰り返しているように見える。

“Practice, Practice, and Practice Some More”

A lot of practice will allow you to appear more relaxed, confident, as well as conversational and spontaneous (yet organized and focused). Practice helps you nail your story, cut out the fat, and speak more extemporarily on your key points during the presentation. Practice gives you the confidence to go more fully naked.

Advice for conference presenters: Be like StevePresentation Zen (blog)

どうやら氏の著書も、ラッキーなことに氏からいただいたDVDも見た私は、いい加減次の餌が来るのを待っていないで自分でプレゼンテーションの練習をひたすらしていかないといけないようだ。

プレゼンテーションのことを学ぶのに生のプレゼンテーションを見ることが良い経験になるのと同様、 自分で実際にプレゼンテーションをすることが一番の練習になると思う。

まずは“Pecha Kucha”方式(1スライド20秒 * 20スライド)で練習するのが良いのではないだろうか。 日本でも各地で行われている“Pecha Kucha Night”に参加してみる(誰でもプレゼンターになれる)のもいい。@pechakuchanight

プレゼンテーションの方法に絶対解はない。
昨日の講演の中であった質問に対してガー氏が答えていたけれども、どれほどテキストで埋め尽くされたスライドであっても、それを求められているのであれば、それをすべきだと。本当に考えなければいけないのは伝えるべき物事をいかに相手に伝えるかということだから。

2009年11月の入荷本

arumumuの投稿 (02/12/2009)

11月に購入した書籍とは何の関係もない話だけれども、“Kindle for iPhone”で書籍を買ってみた。これまで電子書籍の類に手を出すことをためらっていたのだけれども、私は別に紙媒体至上主義ではない。

ただ、電子書籍を買ってiPhoneで読んでみて思ったことがある。
それは基本的にiPhoneをメインの携帯電話として利用している以上、財布よりも一緒に行動する機会は多いこともあって、いつでもどこでも書籍を読むことができる、これはすばらしいことだと思う。

一方で、そういう特性上隙間時間に利用する機会が多くなる、と書籍をぶつ切れで読むことになってしまう可能性が随分と高くなってしまうのではないかということ。
つまり、わざわざ読書の時間をとらなくても読書ができるけれども、一方で1時間程度集中して読みたい、或いは読まなければならないような書籍との相性はあまり良くないのかなと。

それが学術書なのか小説なのかなんなのかは個々に異なると思うけれども、少なくとも私は哲学書を現時点である電子媒体で読みたいとは思わない。

あと、日本で生活していると移動手段が電車になることが多いため、立ったまま本を読んでいる人は、結構いると思う。
紙の書籍なら落としたって折り目がついて悲しい思いをするだけだけれども、Kindleを初めとする電子書籍用のデバイスって耐久性はどうなんだろうか。

そういうわけで、しばらくは軽く読めるような書籍に限って電子書籍を利用していこうと思う。

ところで、Kindle bookを読んでいて、一文を引用したいとき、オリジナルの書籍の何ページにそれが書かれているかをどうやって知ればいいのだろうか。
それともこの考え方が既に時代遅れ?

#1.
A Treatise of Human Nature
—David Hume

#2.
映像論序説—“デジタル/アナログ”を越えて
—北野 圭介

#3.
自殺へ向かう世界
—ポール・ ヴィリリオ

#4.
アメリカ哲学—戦後日本思想の原点(こぶし文庫)
—鶴見 俊輔

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2009年10月の入荷本

arumumuの投稿 (16/11/2009)

最近買った本をほったらかして以前買った本をしばしば読み返している。
過去にわからないまま読み進めた部分で、「そういうことか。」と、その思いを確認するためにしっかり読み直したりしているせいで、全然買った本が読めていない。

ところで、世の中にはフォトリーディングなる読書法があるようなのだけれども、あれは未知の領域、全然知らない言葉や概念だらけの書籍でも、極端なことを言えば理解できない外国語の書籍を読んだときにもそれが可能なのだろうか。

「写真を見るように」ということであれば、理屈上は上述の状況でも内容を記憶することが可能だと思われるけれども、それで哲学書を読むことってできるんだろうか。

#1.
The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business, Economics, Societies and Nations

#2.
Thinking with Type: A Primer for Designers: A Critical Guide for Designers, Writers, Editors, & Students (Design Briefs)

#3.
ミシェル・フーコー講義集成 〈6〉 社会は防衛しなければならない (コレージュ・ド・フランス講義1975-76)

#4.
The Reason for God:  Belief in an Age of Skepticism

#5.
Twitterville: How Businesses Can Thrive in the New Global Neighborhoods

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Twitter関連の書籍を読むのは[Twitterville]が初めて。
まだ半分くらいしか読めていないけれども、洋書でしかもタイトルに[Businesses]と冠されているように、 日本とは随分違う使われ方にフォーカスが当たっているように思う。
まだ日本で書かれたTwitter関連書籍は読んだことがないけれども、 状況描写ではなくて、十分に観察、また考察された書籍が出版されるのは、もう少し待たないといけないのだろうか。

去る10月10日に3回目の開催となったシンポジウム「メディア・アートとは何か?」に参加した。
実はその2週間前に第2回が開催されていたのだけれども、そのことを全く知らなかった私はみすみす参加する機会を逃してしまっていて非常に残念だった。

第3回は第1回と同じ福武ラーニングシアター。第1回では溢れるほどいた聴衆はどこかへ行ってしまったらしく、会場は空席が目立った。

これまでのシンポジウムを通して浮かび上がってきたキーワードは「重層性」—或いは「重奏性」と言ってもいいかもしれない—ということになるのかなと思う。今回は話者によって「メディウムの重層性」であったり、「経験の重層性」であったり、また「出来事の重層性」であったりと、重層性をもつ対象が異なっていたけれども、そこには何らかの共通点があるように思う。
私はどの専門家でもないので、これらに共通する「重層性」という概念について津梁を得るには思考と知識が足りないので、これ以上の説明はできないのが残念である。

また以下に記述するシンポジウムの内容もこのブログを書いている時点で咀嚼できていない部分はノートにはメモしているものの、まとめることができていないので、書かれていない部分もあるし、或いはミスリードをしている部分があるかもしれない。
個人的にはそれらについては今後のシンポジウム、それ以外の時間に、このテーマについて考え、勉強することで補完できればいいと思っているが、なにぶんこのような場に書いているので指摘できる方は遠慮なく指摘して頂きたい。

さて、「Beyond Pages」である。
このシンポジウムのキーパーソンとなっている藤幡氏の「Beyoud Pages」がどういった装置なのかは、何故か映像がyoutubeにあったのでリンクを張っておく。参考になれば。

まず立命館大学の北野氏は、現代はもはや「Ars Electoronica」の「作品」に見られる「ツールなのかアートなのか(例えば「デュシャンの泉」のような)、そのボーダーを壊す行為」それ自体が批判的なものではなくなってしまっていてミディウムの領域横断性(重層性)を問題対象化することがメディア・アートにも必要なのではないかと言う問題提起を行った。

メディア・アートはその特性上、鑑賞者の参加を意識的にさせる側面があるように思える。いわゆる「インタラクティビティ(interactivity)」が、メディア・アートに対してよく用いられるのはそういうことだと思うのだけれども、では“inter-activity”のactionをする人、「行為主」は一体誰なのか。

「Beyond Pages」のリンク先の映像を見るとわかるように「ページをめくる動作をする人」と「ページがめくられる動作、或いはその他の動作」はただ連動しているだけ、つまり行為主の意思と動作が分離されている。

この、本のようでいて本ではないものを指して石田英敬氏はマグリットの「これはパイプではない。«Ceci n’est pas une pipe»」をもじって「これは本ではない。«Ceci n’est pas un libre.»」と表現していたけれども、同時に「私たちは携帯電話で友だちに電話しているのではない」という身近な例でもその意味、そこに潜む重層性を示した。

また京都大学の吉岡洋氏はメディアにとってのクリティークと言う観点から、私たちにとってのメディア経験とは何なのかを論じた。

多くのメディア論はこれまで、人間身体が本来持っている能力の拡張という視点から「メディア」を考えてきたように思われます。つまり「メディア」とは、人間の感覚や思考の能力を拡大・増幅することによって、自然的世界をより高度に支配・制御するような補綴的装置として理解されてきたと言うこともできるでしょう。(吉岡洋氏)

氏が話した内容はここにも下書きとして書かれているので、参照されたい。

出来事としてはこんな感じかと思う。
こういった趣向のシンポジウムなので、自分で考えなければならない部分が多い。
そのために出来事を追っていくと意外にそれほどのボリュームではないように思えてしまう。

余談だけれども、吉岡氏が発言した「顔や声はメディア体験」というフレーズはとても印象に残った。

追記:11月16日
このシンポジウムで冒頭に問題提起をされた北野氏の著書「映像論序説」を読んでみたところ、「重層性」なる概念がわかってきた。
悔やむべきは、シンポジウムに参加する前に読んでおくと随分印象が違ったのではないかと言うこと。何度か読み返し、また引用されている書籍をいくつか読んでいけば、「ああ!」と気づくことがたくさんありそう。

2009年9月の入荷本

arumumuの投稿 (09/10/2009)

旅をするなら、極論予定なんてないほうがいい、と思う。
予期できないことが日常生活よりも、より多く起こるから楽しいのであって、ツアー観光はそういう楽しさがないのが一番参加したくない理由。ふとある場所にじっとしていたくなったときにはそうできる旅のほうがいい。

今更な話だけれども、 そういう予期できないことに日常的に遭遇するのに読書は非常に適していると思う(ただし、自ら読む本の枠を超えて行く限りにおいて)。そういう点でAmazonの「おすすめ商品」は、あまりおもしろくないなと、最近富みに感じる。その辺が、Amazonがすすめる商品が予想以上に斜め上だったり、ふと入った雑貨屋でたまたまステキなものを見つけるような感覚を擬似的に体験できれば、たぶん、もっと楽しい。

#1.
Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness
Richard H. Thaler, Cass R. Sunstein

#2.
Knowledge and Its Limits
Timothy Williamson

#3.
文字講座
文字講座編集委員会

#4.
Between Saying and Doing: Towards an Analytic Pragmatism
Robert B. Brandom

#5.
グッド・ルッキング—イメージング新世紀へ
バーバラ・M. スタフォード, et al

#6.
ヴィジュアル・アナロジー—つなぐ技術としての人間意識
バーバラ・M. スタフォード

#7.
TOKYO FIBER ’09 SENSEWARE
原研哉+日本デザインセンター原デザイン研究所(企画・構成), OKYO FIBER実行委員会(編)

TOKYO FIBER ’09 SENSEWARE

arumumuの投稿 (25/09/2009)

私は何かのにおいを嗅ぐのが好きだけれども、同じくらい何かに触ってみるのも好きだ。

”TOKYO FIBER ’09—SENSEWARE”の展覧会に展示してある作品はどれもつい手を伸ばして触ってみたくなる、そんな衝動を抑えるのが大変な、そんな作品ばかりだった(実際には触れてよいのはサンプル素材のみ)。

会場の大きさもそれほどではなく、作品の数も全く多いわけではないけれども、そこには原研哉氏の言うSENSEWAREが確かにあると感じた。

SENSEWAREという言葉をこう定義して用いている。すなわち、人間の創造本能を鼓舞し、もの作りの意欲を呼び起こす物質。たとえば、石器時代における石。石器を実際に手に持ってみると、そのずっしりとした重さや硬質な手触りに、感覚の奥底に何かが波立つのを覚える。(TOKYO FIBER ’09—SENSEWARE, p.2)

実際にはそういった感覚を呼び起こすものがこの展覧会にしかないわけではない。しかしながら私たちはそういったものの存在に対して、相当に無自覚になっているのではないかということに気がつくきっかけになるのに十分すぎる力をこの展覧会は持っていると思う。

一つだけ気になったのは、「笑うクルマ」のこと。

ドライバーの人格の拡張形であるクルマには当然表情があってもいい。クラクションを鳴らすのはネガティブなコミュニケーションであるが、もし「笑い」が表現できたらクルマとクルマ、人とクルマはもっと楽しい気持ちを交感できる。(TOKYO FIBER ’09—SENSEWARE, p.76)

とのこと。
浅はかな考えかもしれないけれども、せっかくそうであるのなら、コミュニケーションが発生する可能性が高い走行中にもそれができるようにフロントだけではなくリアの部分にもそのような機能が備わった作品であればもっとおもしろかったかなーと。

会期も今月の27日まで、この週末を残すのみとなっているので、ぜひ。

余談。
この展覧会と同じ名前を冠する書籍「TOKYO FIBER ’09—SENSEWARE」のメインコンテンツは、今回展示されていた繊維素材の紹介なのだけれども、その間を縫うように盛り込まれている論述や対談の内容は非常に興味深い。また、同じ内容が英語でも書かれており、多少のニュアンスの違いはあれど、比べて読んでみるのもおもしろい。