去る10月10日に3回目の開催となったシンポジウム「メディア・アートとは何か?」に参加した。
実はその2週間前に第2回が開催されていたのだけれども、そのことを全く知らなかった私はみすみす参加する機会を逃してしまっていて非常に残念だった。
第3回は第1回と同じ福武ラーニングシアター。第1回では溢れるほどいた聴衆はどこかへ行ってしまったらしく、会場は空席が目立った。
これまでのシンポジウムを通して浮かび上がってきたキーワードは「重層性」—或いは「重奏性」と言ってもいいかもしれない—ということになるのかなと思う。今回は話者によって「メディウムの重層性」であったり、「経験の重層性」であったり、また「出来事の重層性」であったりと、重層性をもつ対象が異なっていたけれども、そこには何らかの共通点があるように思う。
私はどの専門家でもないので、これらに共通する「重層性」という概念について津梁を得るには思考と知識が足りないので、これ以上の説明はできないのが残念である。
また以下に記述するシンポジウムの内容もこのブログを書いている時点で咀嚼できていない部分はノートにはメモしているものの、まとめることができていないので、書かれていない部分もあるし、或いはミスリードをしている部分があるかもしれない。
個人的にはそれらについては今後のシンポジウム、それ以外の時間に、このテーマについて考え、勉強することで補完できればいいと思っているが、なにぶんこのような場に書いているので指摘できる方は遠慮なく指摘して頂きたい。
さて、「Beyond Pages」である。
このシンポジウムのキーパーソンとなっている藤幡氏の「Beyoud Pages」がどういった装置なのかは、何故か映像がyoutubeにあったのでリンクを張っておく。参考になれば。
まず立命館大学の北野氏は、現代はもはや「Ars Electoronica」の「作品」に見られる「ツールなのかアートなのか(例えば「デュシャンの泉」のような)、そのボーダーを壊す行為」それ自体が批判的なものではなくなってしまっていてミディウムの領域横断性(重層性)を問題対象化することがメディア・アートにも必要なのではないかと言う問題提起を行った。
メディア・アートはその特性上、鑑賞者の参加を意識的にさせる側面があるように思える。いわゆる「インタラクティビティ(interactivity)」が、メディア・アートに対してよく用いられるのはそういうことだと思うのだけれども、では“inter-activity”のactionをする人、「行為主」は一体誰なのか。
「Beyond Pages」のリンク先の映像を見るとわかるように「ページをめくる動作をする人」と「ページがめくられる動作、或いはその他の動作」はただ連動しているだけ、つまり行為主の意思と動作が分離されている。
この、本のようでいて本ではないものを指して石田英敬氏はマグリットの「これはパイプではない。«Ceci n’est pas une pipe»」をもじって「これは本ではない。«Ceci n’est pas un libre.»」と表現していたけれども、同時に「私たちは携帯電話で友だちに電話しているのではない」という身近な例でもその意味、そこに潜む重層性を示した。
また京都大学の吉岡洋氏はメディアにとってのクリティークと言う観点から、私たちにとってのメディア経験とは何なのかを論じた。
多くのメディア論はこれまで、人間身体が本来持っている能力の拡張という視点から「メディア」を考えてきたように思われます。つまり「メディア」とは、人間の感覚や思考の能力を拡大・増幅することによって、自然的世界をより高度に支配・制御するような補綴的装置として理解されてきたと言うこともできるでしょう。(吉岡洋氏)
氏が話した内容はここにも下書きとして書かれているので、参照されたい。
出来事としてはこんな感じかと思う。
こういった趣向のシンポジウムなので、自分で考えなければならない部分が多い。
そのために出来事を追っていくと意外にそれほどのボリュームではないように思えてしまう。
余談だけれども、吉岡氏が発言した「顔や声はメディア体験」というフレーズはとても印象に残った。