Alumimum

TwitterのUIが新しくなったことに伴い、単にTweetの本文を組み込むだけではなく、上のようにTweetに対してより反応がしやすい形(原文だとattrative)でTweetをブログやウェブサイトの本文中に埋め込むことができるようになったようなので、試してみました。

簡単に埋め込むことができるので方法を書いておきます。なお、この機能はWeb版でログインしていない場合は、有効になっていないようです。
追記:12月14日時点でログインしていない状態でも機能が有効化していることを確認しております。
※現時点では他のブログやウェブサイト等での動作は確認していません。あしからず。
追記: @kskmeuk さんによるとはてなダイアリーでは使えないようです。

  1. Web版でブログに埋め込みたいTweetにカーソルを当てると右上に表示される「open」をクリックします。
  2. 拡張されたTweet欄にある「Details」をクリックします。
  3. 選択したTweetのみが表示されたら、「Embed this Tweet」をクリックします。
  4. 「Embed this Tweet」をクリックするとTweetを埋め込むためのコードが表示されるので、ブログの本文にコピペすればOKです。

スライドショーには JavaScript が必要です。

なお、詳細は英語ですがTwitter公式サイトで説明されていますのでどうぞー。

Takeo Paper Show 2010に行ってきた

arumumuの投稿 (18/04/2010)

紙とは何か。紙は人間に何を与え、紙から何を受け取ってきたか。
紙を使う社会には、どんな未来があるのか。

このテーマに惹かれて、東京丸ビルで4月15日から18日まで開催されている「感じるペーパーショウ」に足を運んだ。以下、少し展示物にも言及するのでお気をつけて。

今日、電子メディアの進展によって紙の役割が変わりつつある。「グーデンベルク銀河の終焉」などという言葉も聞かれる昨今である。紙と印刷技術との相乗効果で生み出されたコミュニケーションの世界は、ひとつの宇宙の爆発的な誕生になぞらえられるわけだが、今日その銀河の命脈も残りくばくということか。その比喩は面白いと思うが、紙をメディアと考えてその終焉を評する発想は、紙という物質の意味を少し狭くとらえすぎている。紙は書写・印刷材料である以上に、人間の感覚を鼓舞し続けてきた知の触媒すなわちセンスウェアである。 (…)  紙は媒質そのものにその本質が潜んでいる。紙の白やその物質性と対話を続けることで、人間はそこに安定した表現を育むことができた。たとえば書籍はそのようなものとして文化の中に立ち上がってきた道具である。今日、多様化したメディアの意味を考え、掘り下げる上でも、空気のように自分たちの日常に寄り添い、そこに力を与え続けてきた媒介物の意味を、感覚を通して評価し直す必要がありそうだ。 (pp. 153-155)

原 研哉, デザインノデザイン

Today paper’s role has been metamorphosed by the progress of electronic media. These days we even hear people say things like, “The Gutenberg Galaxy has come to an end.” The world of communication, a synergistic result of paper and  printing technology, is related to the eruptive birth of a universe, but does this Galaxy really have a severely limited time to live? The metaphor sounds interesting, but I believe that the thinking that ponders the end of the Galaxy in paper as a medium grips the material in a smaller sense. Paper is senseware; it serves, more than a material for writing and printing, as a perpetual medium of intelligence inspiring the human senses. (…) Unlike electrons, paper has an essence that lurks in the medium itself. By incessantly communicating with its whiteness as well as materiality, we have been able to nurture and secure a constant domain of representation. The book is an example of a tool that has come into being in our culture as a communicator with paper. Today, even as we explore the meaning of diversified media, it seems necessary to reevaluate via the senses the meaning of media that have been as close as air, incessantly giving us strength. (p. 155)

Kenya HARA, DESIGNING DESIGN

さて、その展示会で 印象的だったのは、1日の朝刊分くらいの厚さの新聞の原紙。地面から腰の位置くらいまで1部ずつきれいに積んであって一番上の面には上から新聞の記事を投射され、さながら新聞のような見た目になっているけれども、1部を手に取り投射から外すと実際の原紙には何も書かれていない。そうやって手に取ってみると照明の加減もあったけれども紙は意外と白っぽい、ただの紙の束である。おそらく新聞記事の投射がされずに積んであるだけで何の説明もなかったなら多くの人はそれが「印刷される前の新聞紙」だと認識できないかもしれない。

ところが一旦それを手に取ってページをめくって見ると、一転してとても親しみのある手触りであり聞き覚えのある紙の音がする。新聞紙の音。 インクのにおいのしない新聞。目を閉じてみるともっとよくわかるかもしれない。私は新聞なりポスターなり書籍なりになる前の、いわゆる原紙に触れる機会がこれまでほとんどなかったので自らのアクションの違いによって受ける感覚の違いの大きさがとても興味深かった。

紙に触れ、生まれる可能性。

実現したいのは、記録媒体としてではない紙の「原型」を示しつつ、実際に触れ、本質を感じ取るためのアプローチ。
たとえば、紙の「原始」の姿、誕生と消滅、再生の仕組みを見せること。
たとえば、無垢な紙が備えている清らかさ、ぬくもりなどの長所を視覚や聴覚、触覚、嗅覚を使って再認識すること。

しかしこのようなコンセプトのもとに開催された展示会なのであれば、もう少し「自由に紙に触れることで、生まれる可能性。」という観点を重視して展示してほしかった。私は紙を触りまくって係りの人に「破れてしまいますので…。」と注意されたのだけれども、紙がそもそもそういう素材であることは主催者が一番よくわかっているはず。そうであるならば、多少破損することを考慮した設計で展示するほうが上で引用したコンセプトをより実現する可能性が高くなるのではないか。皆が一様に同じ触り方をするとは限らない。それなのに主催者の範疇から飛び出すような触り方を制限することは非常に残念に思える。私たちはポスターで折鶴を折ることもできるし、レシートを栞にしてもいい。「作られた物を使う者」はしばしば「物を作る者」の想像を超えた使い方をする。紙はそういう柔軟性に富んでいる素材だと思う。

そういうわけだから会場でサンプルとしていくつかの紙をもらった来場者はその紙について多くの説明を受けて理解することも大切だが、ただその紙を指ではじいたり破ったり折ったりすること、素材をそのままにしておかないことも意識したらいいんじゃないかと思う。ある紙はパシッという、ある紙はピシッという、パンという…。 竹でできた紙をぐしゃぐしゃにしてみるとそれがかなり堅い紙であることがわかる。意外としわにならないことに気が付く。紙はただ情報を載せるだけのものではないからそういうことって大事なんじゃないかな。

ネットという外部記憶装置

arumumuの投稿 (08/03/2010)

Itmediaの記事によれば米EvernoteのCEO、Phil Libin(フィル・リビン)氏は次のように発言したようだ。「われわれのゴールは、ユーザーの脳を拡張すること。」

その発言は 「人間の感覚や思考の能力を拡大・増幅することによって、自然的世界をより高度に支配・制御するような補綴的装置」という観点からは非常に魅力的で独特の高揚感をもたらし、有無を言わず飛びつきたくなるような言葉に聞こえる。しかしそれは昨今話題となっているAR (Augmented Reality)と同様、いったい脳のどのような部分について拡張が可能なのかについてよく考えておくべきだと思う。

私たちはいつでも意識的にしろ無意識的にしろ非常に膨大な情報にさらされている。オーディオビジュアル時代と呼ばれる現代においても、視覚のみならず聴覚や触覚をはじめとした感覚も常に何かを感じていて、視覚情報と強く結びついて記憶を形成している。

例えば最近話題の電子書籍について明和電機の土佐氏がおもしろいことをブログに書いている(テキストと画像を引用)。

「本にできて、キンドルにできないこと」をツイッターでつぶやいたら、面白いアイデアをみなさんからもいただきました。面白いのをいくつかイラストにしてみた。 (…)

Photo_3

わかるなあ、この男のロマン。「本をくりぬいてピストルを隠せない」です。
Photo_4

これも笑った。「力じまんで引きちぎれない」。
まあ、キンドルも引きちぎろうと思えばできますが、その前に、心が引きちぎれそうになります。あんな高い商品。

そのほかにも、

「パラパラアニメができない」「袋とじができない」「読んだあと焚き火にくべれない」「床が抜けない」「行間に鼻毛を植えれない(漱石)」「書斎のインテリアにならない」「早弁の弁当隠せない」「著者サインをもらえない」「食べて覚えられない」「ブックオフに出せない」「出入りのドスよけにならない」「鍋敷にならない」「丸めてゴキブリをたたけない」「屋根を葺けない」「読み終わって、いきおいよくパタン!ができない」「筋トレできない」

などなど、秀逸なアイデアをいただきました。

・・・・しかし、こうして見ると、本の中身に関してのアイデアがひとつもない!!
本とは何か?を考えさせられました。

明和電機 ~明和電機 社長ブログ~

ふざけているようだけれども、いまの電子書籍は読み物としてのコンテンツにしか焦点が当たっていない一方で、紙媒体の書籍はコンテンツ以外の部分で、つまりコンテンツを読むという視覚的刺激以外の刺激を非常に多く人に与えていることを如実に表している。

このような観点から考えると、Evernoteをどのように使えばEvernoteがより効果的に「脳を拡張できる」のかが少し見えてくるのではないだろうか。例えば視覚以外の部分にもリンクしている情報がより多い場合には、写真やテキストだけをアップしても後からなぜそれをアップしたのか考えないといけない。食べ物の写真などは香りの情報がより多いほうが、後から思い起こすのが楽だろう。現実的にはそのような視覚以外の情報を全てタグで示すことはできないし、そんなことが仮にできたとしても今度はタグの量が膨大すぎるか、他の要素と重複しすぎてタグの意味を成さないだろう。しかしそれでは結局アップした情報の文脈を自分の脳が記憶することになり、到底「拡張」とは言えない。

今回はたまたまEvernoteを引き合いに出したけれども、それがiPhoneアプリでも構わない、何か新しい媒体でも構わない、上述のような部分について作る側だけではなく、使う側も意識的になることは「脳の拡張」を実現する上でより重要になってくる考え方だと考えている。

永遠と怠惰のあいだ

arumumuの投稿 (24/02/2010)

去る2月21日に東京ビックサイトで開催されたWhisky Live! 2010に参加してきたのだけども、ここ数年参加してきた中では一番来場者が多かったのではないかと思うくらいよく混んでいた。しかし開催日以前にこのTweetを見ていた私は手放しに楽しめなかった。

「Whisky Magazine Live Tokyo」が今週末に控えていることから、業界では盛り上がっているようですが、私は行く予定がありません。シングルモルトウィスキーは大好きだし、モルトバーも好きなんですけど、業界向けイベントに参加したい、というのとは少し違うんですよね。

@hira_tora_jp さんのTweet

というのは、@hira_tora_jpさんの仰る通りこのイベントは一般のウイスキー愛好者の参加も多いとはいえ、業界向けという性質をいまだしっかりもっているように見える。そしていわゆる「業界の方々」の会場での振る舞いもやはりそういう認識が強い、と混雑しているときにはそれがよくそれが目立っていたように思う。

最近日本でウイスキーを飲む人が—たとえハイボールという形だったとしても—多くなってきているようだ。
しかし「業界の方々」、或いは昔からの愛好者はそれに対応するのだろうか、できるだろうか。私には各醸造所のブースのカウンターの前を占拠し、いつまでも講釈を垂れている彼らがそれを意識しているとは思えなかった。
他方、よりウイスキーそのものを作る立場に近い人たちは既に動き出している。

WHISKY Magazine JAPAN編集長のDave Broom (デイブ・ブルーム)氏は言う。

制止し続けるものは何もない、永遠であるものも何もない、世界は常に動いている、私たちの生活も常に変化している。たぶん、ウイスキーがこの単純な真実を見失い、全てに変化はないと考えてしまった。たぶんそれゆえに、一つの世代がこのスピリッツを見捨てたのかもしれない。
しかし、今起きていることを見ると、ウイスキーは教訓を学んだこと、そして、ウイスキーもまた新しいことを試し、だらけた習慣を捨てて広い視野を持たなければならないという同じ決意を持ちつつあるのだということが私には印象的に思える。前進するということは、時には、過去の最高の側面を見て、それらを現在が求めていることに適合させることである。 (p.5)

Dave Broom, WHISKY Magazine JAPAN 2010 SPRING

これは、今回のイベントに参加したすべての人渡されている雑誌の冒頭に書いてある。
性急に答えを出す必要はないので、私はこのデイブ氏の言葉を引用することでウイスキーの世界だけではなく、同じような構造を持つ世界に対して問題提起をしておこうと思う。

Joseph Beuys展に行ってきた

arumumuの投稿 (28/01/2010)

およそ26年前の話である。

2009年の晩秋ごろから水戸芸術館で開催されていた「Joseph Beuys展」には、ボイス氏が1984年に来日し、8日の間各地で紡いだ言葉が映像となっていくつも上映されていた。

What I’m trying to achieve is not to produce artworks for appreciation it is to arose people’s interest in asking questions through art — “What makes this work art, and how is it engaged in society?”

私が試みていることは、鑑賞される芸術作品ではなく、作品を通してなぜそれが成立しているのか — それがいかに社会とかかわりを持っているか — そういう「なぜ」という問いを喚起することなのです。

Joseph Beuys (1921-1986)

ボイス氏の言葉からは一貫してこの姿勢が感じられた。これほどまでに社会と関わることへの重要性について言葉で表現したアーティストがいたのかということに衝撃を受けた。会場に入ってすぐそんな映像を見てしまったので、かなり多く展示されていたボイス氏の作品よりも、日本にいたわずか8日間に何を話したのかのほうが気になって仕方がなかった。言葉というのは実に口当たりがよいものだ。

If an artist withdraws from confronting the whole society and critical analysis of it, he/she has to remain in children’s domain.

社会全体と対決しなければ、それを批判的に考えていかなければ、芸術家は単なる子供の領域に閉じこもってしまいます。

Joseph Beuys (1921-1986)

これは決して芸術家に限ったことではない。
誰もが社会現象に深く関わっており、その社会の姿を変える、創りだすことができるということ、その潜在性を指してボイス氏は「すべての人間はアーティストである」と表現する。この表現を指して理想論と失笑することは容易いが、それは越えられたわけでも、消滅してしまったわけでもないと「ナノ・ソート」の著者である杉田氏は言う。
私自身、職業として所属している、いわゆるカテゴリとしてのITの世界は子供の領域に閉じこもってしまっているのではないか、そう感じることが最近しばしばある。

「拡張された芸術概念」は、創造性というものが、アーティストに特権的ににえられたものではなく、 社会のさまざまな局面に参加するすべての人々が、個々の活動を通して発揮することができるものだということを明確に主張した。一部の特権的意識にまみれた人々の創造を芸術と呼ぶのであれば、創造性を発揮しうるすべての人々の手によって生み出されるものは、芸術を拡張した何ものかに違いない。また、そのようなかたちで拡張された芸術は、個々の作品に結果するというよりは、社会という誰もがアクセスできる巨大な素材を、総がかりで彫刻していくことになる。

杉田敦, ナノ・ソート

たとえ人びとが社会に介在していたとしても、それぞれがエゴイストで好き勝手にやっていては「総がかりで彫刻」ということにはならない。ボイス氏は資本主義がそれをもたらしたが、その状態を多様性のある社会とは言わないと言っていたけれども、資本主義社会が原因かどうかはともかく、確かに多様性という言葉はしばしばご都合主義的解釈で用いられている。

ボイス氏が残していったメッセージは今なお、彼が日本を訪れた当時よりも重くわたしたちの肩にのしかかっている。彼が提示した問題を後回しにしてきたツケをいまの日本の社会(を構成する人々)は払うことができるだろうか。そして当時の映像で、ボイス氏と議論を交わした芸大の人たち、或いは芸術関係、その他の人たちはボイス氏の言葉を受け止め、およそ26年間を過ごしてきたのだろうか。

もちろんこれは未来の自分に対しての自戒ともなりうるのだけれども…。

芸術で考える

arumumuの投稿 (21/01/2010)

これ、面白い。俺みたいな普段行かないクラスタの来場のきっかけになるか!?:東京国立博物館でiPhoneを使った位置情報連動ガイドの実証実験:MarkeZine(マーケジン)http://bit.ly/64JoCy

@husaosanさんの発言

上の発言はたまたま私のTwitterのTL (Time Line)にあった発言を引っ張ってきただけでそれ以上の意味はないけれども、私が興味深いと思ったのは、iPhoneを用いた位置情報連動ガイドが来場客にどのような影響を与えるかということももちろんだけれども、それ以上に普段「改まって」博物館や美術館に行くことが少ない人は、なぜそういう行動をとるのかということ。

実は同じような試みが「文化庁メディア芸術祭」でも行われている。
メディア芸術祭公式iPhoneアプリ『JMAF navi』、本日よりApp Storeにて無料ダウンロードがスタート。

例えばこのような取り組みが本格的に導入されたとして、彼のような普段展示空間に足を運ぶことが少ない人は、その後そのような場所に何度も足を運ぶようになるだろうか。
それは疑わしい。

つまりこれらの取り組みは、技術的にはおそらく展示空間を訪れた人に対して、より「鑑賞しやすい状況」にする可能性はあっても、来場者が展示物等に触れる機会そのものを重要視することに直接影響を与えることはないように思える。

ではなぜ、わたしたちの多くはそういったものを鑑賞しようと思わないのか。
杉田敦氏は、現代の芸術に関して以下のような背景があると考えている。

現代美術を前にしたときの難解で近寄りがたいというありがちな反応の問題も見えてくることになる。それらの反応の多くは、享受者という立場に何の疑いも抱いていない人々のものでもある。享受する立場にいるからこそ、理解できないようなものを拒絶するのだ。彼らはまた、作品に固有の意味があることも疑っていない。だからこそ、自分が理解できないものが存在するということを無批判に受け入れてしまうのだ。彼らの抱く難解さや近寄り難さは、彼らが享受者であり続ける限りぬぐい去ることはできない。また彼らがそうした意識を抱いている限り、保守的なアートを巡る制度はより強固なものになることになる。一見すると、アートの関係者の多くは、難解さや近寄り難さというようなものを払拭すべく努力しているように見えなくもない。けれども、難解さや近寄り難さに対処している限り、美術を巡る制度の中で生産者と享受者は明確に区別され続けることになる。享受者であり続けるからこそ難解なのであり近寄り難いのだ。凝視めるべき問題はそこにある。 (pp.215-216)

杉田敦, ナノ・ソート

幸せなことに東京にいると、東京では様々なアーティストの展覧会が年間を通して隙間なく開催されており、それらを鑑賞する機会には事欠かない、世界でも比較的恵まれた環境であることがよくわかる。
それでもわたしたちが享受者である限り、生産者と享受者の間に“interactivity (インタラクティビティ)”は発生しないし、作品を通した受け手側からの再構成、或いは再生産が起こることもない。

たとえそれが、即座に効果を見込めないようなものだとしても、実行できることがあるのであれば、まずそれを行うべきだ。 [...] アートに関連して言えば、直接、作品制作に携わる人間だけでなく、企画などを通して間接的に関わる学芸員やキュレータや、種々の表現を受け止める観衆や聴衆に対しても、同じように自身を振り返ることを促している。結局そうした問いは、現代美術を難解だとして敬遠することや、難解さを回避するためと称して弄ばれる、表層的なセールス・トークの濫用の背後に、ある種の怠惰があることを明るみに出すことになる。同時代の表現を目の前にしたとき、人々には何かするべきことがあるはずだ。それを理解したり、把握することがすべてではない。意味のない目的を抱くからこそ、それらは難解なものに成り果てる。もちろん、そもそも理解や把握などということが可能かどうかを問うことも意味のないことではない。壮大な目標を勝手に設定して、挫折してみせることは安易な現実逃避でもある。少なくともわたしたちは、何かを想い、考えることぐらいはできるはずだ。もちろん、結果は問題ではない。理解や把握が想定しているようなゴールは必要ない。誤解を恐れずに言えば、現代美術を考えるのではない。それが何もので、どこに向かおうとしているかなどということはどうでもよいことなのだ。必要なのは、考えるということ。現代美術を考えるのではなく、現代美術で考えるのだ。 (p.23)

杉田敦, ナノ・ソート

考えるということは安易に人の意見に同意したり、 脊髄反射をしたりすることでもなければ、大量のブックマークをつけることでも、やたらと引用をすることとも違う。
思考するということ自体が造形行為だととらえ、思考は言葉によって素材となり、造形化されるものだと考えたヨーゼフ・ボイスはこう言っている。

In my Expanded Concept of Art, words are included in art.
私の«拡張された芸術概念»では、言葉も芸術なのです。

Joseph Beuys (1921-1986)

私も一技術者であり、新しいテクノロジーには並々ならぬ関心がある。
しかしだからこそ、そのテクノロジーが社会にとって、そしてそれを用いる私たちにとってどのような影響があるのか、それが何を生み出すのか、ということに加えてなぜそれが導入されることになるのかということなど、もう少し踏み込んだ部分についても、もっと深く考え実践していくべきだと考えている。

杉田氏の「ナノ・ソート」は、Kentridge (ケントリッジ)展を見に行ったときに美術館のショップで見つけて初めてその存在を知った本だったけれども、氏の考えは非常に興味深かった。おすすめの1冊。

そしてこの「ナノ・ソート」を読んだのが1月の3連休だったわけだけれども、本書で言及されていた“Joseph Beuys (ヨーゼフ・ボイス)”に興味を持って調べたところ、水戸芸術館で「ボイスがいた8日間」という展覧会が会期終了間近だということを知ったのがその連休の最終日。ということで先日水戸まで足を運んだわけである。

その話はまた別のエントリーで。

余談だけれども、「メディア・アートとは何か?」のシンポジウムでは、この生産者と享受者の境界の交差が意図的に、そして非常にわかりやすい形でなされており、かつ前述のような社会に対する問題提起がはっきりされているために非常に興味深いシンポジウムだと思う。

William Kentridge展に行ってきた

arumumuの投稿 (15/01/2010)

昨年に人伝いで、ドローイングがおもしろいという話を聞いて、楽しみにしていたウイリアム・ケントリッジ(William Kentridge)氏の展覧会「歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた…」に年明け2日に行ってきた。
その感想をちょっとばかり。

氏の作るアニメーションで特徴的なのは何といっても、木炭画のドローイングで構成されたアニメーションだと思う。本人が「石器時代の映画製作」と言っているらしいこのコントラストの比較的強いモノクロ基調のアニメーションはしかし、現代のカラフルで丁寧な線で構成されたアニメーションとはまったく違う魅力的な何かをもっており、初めて氏のアニメーションを見た私は他のことなど何も考えず、氏のいくつかのアニメーションを食い入るように見ていた。

私たちが静止的な世界に住んでいるのか、それとも変化する世界に住んでいるのかを理解することが重要である。世界を事実の集積として理解することもできるし、全ての事実は何かに変化するまさにその瞬間にあると理解することもできる。[...]アニメーションは世界を事実として理解するプロセスではなく、世界を25コマ/秒として理解するプロセスなのだ。アニメーションのあらゆる段階において、その本質は、暫定的で何も固定しない、ということなのだ。

The central things is to know if you are living in a world of static fact, or if you are living in a world of transformation. You can either see the world as a collection of facts, or you can understand all facts as being moments of the processes in transformation. [...] Animation is a process of understanding the world not as facts, but as 25 frames a second. It is in its very nature provisional at all stages.

—William Kentridge, 2007 (quoted from the catalogue of this exhibition, pp. 10-11)

1枚のドローイングから始まって描いては少し消し、また描くというプロセスを踏むことで、通常のアニメーションではすぐに見えなくなってしまう時間の流れが見えること、これは消しても跡が残る木炭画だからこそであり、この視覚的な「跡」というのはさまざまなメタファーを含んでいると思う。

それは例えば氏が当初作品で取り上げた氏の出身地である南アフリカの(政治的な内容を含めた)歴史について、或いは氏個人、ひいては氏の作品を見る私たち自身への言及について、この痕跡という要素は非常に多くのことを考えるきっかけとなる。スクリプトのない氏のアニメーション、前のコマの跡がそのうしろに続くコマの描写に影響を与えるアニメーションはまるで歴史や個人の人生そのもののよう。

また、氏の作品の中にはX線写真を模した木炭画のアニメーション作品があり、

ソナー、X線写真、MRI、CATスキャンなどのイメージは、身体の外側のイメージとも、解剖学的な絵画や身体の内部を露にする解剖写真とも異なる。それは本質的に内的なイメージなのだ。どんなに深く解剖したとしても、そこにソナー画像の模倣的な言及を見つけることはないだろう。それらの画像は既にメタファーなのだ。ある程度理解できても、完全に把握することができない「内部」からのメッセージなのだ。それらは目に見える範囲から切り離された、遠い未知の場所からの報告としてやってくる。

These images—sonar, X-ray, MRI, CAT scan—are different from external images of the body, or even anatomical paintings or photographs of dissections revealing a body. They are, by their very nature, internal images. Dissect as deep as you like and you will never find the mimetic reference of the sonar. They are already a metaphor. They are messages from an inside we may apprehend but can never grasp. In their separation from the apparent, they come as reports from a distant and unknown place.

—William Kentridge, The Body Drawn and Quartered (quoted from the catalogue of this exhibition, p. 65)

氏自身がこのようにとらえているのも興味深い。実際に見に行くのが一番だと思うが、このアニメーションは非常に不気味というか、なかなか目にすることができない類のアニメーションだと思う。

今回の展覧会では映像作品が比較的多く、四方を映像で囲まれた場所もいくつかある。また木炭画や影絵等を手法としているため基本的に映像自体のコントラストが強い。
十分な時間(3時間くらい)と良好な体調でもって見に行くとよい思考材料となると思う。私はまだ咀嚼中。

ちなみに“William Kentridge: Certain Doubt Of”というドキュメンタリーDVDが売っていたので買ってみたが、内容から考えると4000円は少し高い気がする。確かに少ない時間ながら氏のアニメーションやドローイングを自宅で見られるけれども、もう少し氏の思想的な部分が見えるとよかったのかもしれない。 少なくとも私はそういうことを望んでいた。

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SOUND CONTINUUM 2009参加報告

arumumuの投稿 (31/12/2009)

去る11月21日、22日に東京芸術大学大学院映像研究科で行われた「SOUND CONTINUUM 2009」に参加した。
いつの間にか1ヶ月も経ってしまったけれども、個人的な印象として世の中にある情報が、随分視覚に偏重しているように思える昨今、聴覚に焦点を当てるこのようなシンポジウムに参加したことで、少し世界の見方が変わった。
残念ながら他の用事があったため21日のみの参加となってしまったけれども、門外漢が頭に刺激を受けるには十分なシンポジウムだった。

印象的だったのは“soundscape”という考え方があること。
私は知らなかったけれども、これはもともと“landscape”に由来する単語らしい。

“SOUNDSCAPE: An environment of sound (sonic environment) with emphasis on the way it is perceived and understood by the individual, or by a society. It thus depends on the relationship between the individual and any such environment. The term may refer to actual environments, or to abstract constructions such as musical compositions and tape montages, particularly when considered as an artificial environment.”

—B.Truax ad., A Handbook for Acoustic Ecology. (A.R.C., Vancouver, 1978)

直接的に“landscape”という言葉が視覚的な意味を持っているわけではないものの、語源としては画家が用いた言葉であり、やはり視覚的である一方で、“soundscape”とは文字通り聴覚的である。
では具体的にどんなものが、“soundscape”なのか。例えば下のリンクで聞くことができる音は“soundscape”だと思う。この音源付近で生活している人はこれを聞くだけで、どこの場所かわかるし、その情景も浮かぶはず。

とある場所の音

このような音は普段意識していないだけで、案外私たちは非常に多くの“soundscape”をちゃんと認識しているのではないだろうか。また、「東京はヘッドホンなしには生きていけない」ほどの騒音に満ちていることには意識的で、イヤホンやヘッドホンをしていてそれらを回避することはあっても、広告などの氾濫で大量の文字情報があっても目を閉じるなんてことをしている人はおそらくいない。そういう意味で聴覚は、視覚よりもダイレクトに人間のどこかに働きかける力があるのではないだろうか。

このところネットでもあまり活動が見られなかった“Presentation Zen”の著者ガー・レイノルズ氏が久々にApple Store 銀座でPresentation Zen Talk(?)をされるということで、参加してきた。

東京に住むようになってからたぶん一度も欠かさず参加しているけれども、いつも立ち見の人がいるくらい人気で、しかも私のように毎度訪れている人も少数なことから、関心の高さが伺える。ただし、集まるのはいつも出身国を問わず英語話者が圧倒的に多い。

内容は4月の時と大きくは変わらない。
それは軸がしっかりしていることの裏返しでもあるけれども、用いるスライドのデザインが少しずつ異なることから氏も試行錯誤を繰り返しているように見える。

“Practice, Practice, and Practice Some More”

A lot of practice will allow you to appear more relaxed, confident, as well as conversational and spontaneous (yet organized and focused). Practice helps you nail your story, cut out the fat, and speak more extemporarily on your key points during the presentation. Practice gives you the confidence to go more fully naked.

Advice for conference presenters: Be like StevePresentation Zen (blog)

どうやら氏の著書も、ラッキーなことに氏からいただいたDVDも見た私は、いい加減次の餌が来るのを待っていないで自分でプレゼンテーションの練習をひたすらしていかないといけないようだ。

プレゼンテーションのことを学ぶのに生のプレゼンテーションを見ることが良い経験になるのと同様、 自分で実際にプレゼンテーションをすることが一番の練習になると思う。

まずは“Pecha Kucha”方式(1スライド20秒 * 20スライド)で練習するのが良いのではないだろうか。 日本でも各地で行われている“Pecha Kucha Night”に参加してみる(誰でもプレゼンターになれる)のもいい。@pechakuchanight

プレゼンテーションの方法に絶対解はない。
昨日の講演の中であった質問に対してガー氏が答えていたけれども、どれほどテキストで埋め尽くされたスライドであっても、それを求められているのであれば、それをすべきだと。本当に考えなければいけないのは伝えるべき物事をいかに相手に伝えるかということだから。

2009年11月の入荷本

arumumuの投稿 (02/12/2009)

11月に購入した書籍とは何の関係もない話だけれども、“Kindle for iPhone”で書籍を買ってみた。これまで電子書籍の類に手を出すことをためらっていたのだけれども、私は別に紙媒体至上主義ではない。

ただ、電子書籍を買ってiPhoneで読んでみて思ったことがある。
それは基本的にiPhoneをメインの携帯電話として利用している以上、財布よりも一緒に行動する機会は多いこともあって、いつでもどこでも書籍を読むことができる、これはすばらしいことだと思う。

一方で、そういう特性上隙間時間に利用する機会が多くなる、と書籍をぶつ切れで読むことになってしまう可能性が随分と高くなってしまうのではないかということ。
つまり、わざわざ読書の時間をとらなくても読書ができるけれども、一方で1時間程度集中して読みたい、或いは読まなければならないような書籍との相性はあまり良くないのかなと。

それが学術書なのか小説なのかなんなのかは個々に異なると思うけれども、少なくとも私は哲学書を現時点である電子媒体で読みたいとは思わない。

あと、日本で生活していると移動手段が電車になることが多いため、立ったまま本を読んでいる人は、結構いると思う。
紙の書籍なら落としたって折り目がついて悲しい思いをするだけだけれども、Kindleを初めとする電子書籍用のデバイスって耐久性はどうなんだろうか。

そういうわけで、しばらくは軽く読めるような書籍に限って電子書籍を利用していこうと思う。

ところで、Kindle bookを読んでいて、一文を引用したいとき、オリジナルの書籍の何ページにそれが書かれているかをどうやって知ればいいのだろうか。
それともこの考え方が既に時代遅れ?

#1.
A Treatise of Human Nature
—David Hume

#2.
映像論序説—“デジタル/アナログ”を越えて
—北野 圭介

#3.
自殺へ向かう世界
—ポール・ ヴィリリオ

#4.
アメリカ哲学—戦後日本思想の原点(こぶし文庫)
—鶴見 俊輔

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  • 確かにTypographyの歴史とかTypefaceの各名称とかが説明されている本はあっても、同じ本の中にType FoundriesとかType Designer、Online Resouresにまで言及した本はなかったんじゃないかな。 2 days ago
  • Typographyにとって現代はGolden Ageか。 2 days ago
  • まじでか。 2 days ago
  • アートデザイナー石岡瑛子さん死去 アカデミー賞受賞 http://t.co/U8ayPs42 2 days ago
  • 故障なら仕方がない。「plala メンテナンス・故障情報(東京都):【故障】インターネットアクセス」 http://t.co/Ta9BQh6f 2 days ago
  • やっぱりフレッツがつながらない人が他にもいるみたいだなー。 3 days ago
  • 昨年末にCERNの研究員がヒッグス粒子についてのプレゼンでComic Sansを使ったのはpoor choiceだとかという話笑"Vast typographical history is unknown by most typists" http://t.co/pUI6bAOz 3 days ago
  • Lion MacとWindowsを頻繁に行き来してると、ページをスクロールするときにパニックになる笑 3 days ago
  • US配列のシリコンキーボードは久しぶりかな?「エレコム、丸めて持ち運べるシリコン製Bluetoothキーボード」 http://t.co/4kHLKBXm 3 days ago
  • X Gamesって日本で全然話題にならない気がするけど、実際どうなんだろうか。 4 days ago

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